私は大学を卒業するまでの20年余りを沖縄の嘉手納基地に次いで日本で2番目に広い面積の米軍基地「横田基地」のすぐそばの家で過ごしました。
1. 米軍基地近隣住民の日常
小さい頃から飛行機が飛んでるのが当たり前の環境でした。
今は周辺住民に配慮されていて、めったなことでは無いようですが、私の子供の頃は夜中もエンジンテストなどで爆音が轟く騒々しい町でした。
そのせいか私の知る人はみんな声がでかいです。もちろん私も…。
1-1. 米軍機が飛ぶととテレビやラジオが聴こえない!
私の家はこの米軍基地まで歩いて行ける程の距離にありましたので飛行機が離発着する爆音で音が聴こえなくなることがしばしばでした。
特にギャラクシーという特大の輸送機や超音速の戦闘機が飛び立つと爆音がすごく離陸が終わるまで我慢するしかありませんでした。
私の家は滑走路の真横でしたが、友人の家はモロに滑走路の延長線上にありました。
中学時代、友人の家の「離れ」が私たちの麻雀部屋となっていて毎日のように入り浸っていましたが、初めてこの家で米軍機の離陸を体験した時には本当にびっくりしました。
私も基地の町で育って大抵の騒音には慣れていましたが、この騒音は半端ではありませんでした。
通常は輸送機なのでさほど大きな騒音ではありませんが音速の戦闘機の爆音は本当にすごいです。
ときどき、こんな奴が飛んでくるのです。
それでも友人は平然としていましたし、私たちも入り浸っているうちに慣れてしまいました。
1-2. エアチェックができない!
基地の町で青春時代を過ごした私にとって基地の町に住む不都合が「うるさい」以外にもありました。
テレビやラジオについては「聴こえない」以外にも「ノイズ」がすごい点も迷惑な米軍機の弊害でした。
インターネットもスマホもない私の青春時代はラジオからお気に入りの曲を録音する「エアチェック」をしたものですが、米軍機が飛んでくるとノイズが入ってしまい録音が台無しになりました。
特にヘリコプターが近くを飛んでいるとひどい雑音で録り直しを余儀なくされます。
次にいつその曲がかかるのかをFM雑誌でチェックしながら…。
1-3. 道路が分断されて不便極まりない
横田基地は前述の通り、日本では2番目に広い敷地面積を誇る米軍基地です。
広大な真っ平らな土地を占める基地が無ければ「1つの市ができる」と言われていたほどです。
脇を走る国道16号線は常に渋滞していて近隣の市町村の便利な導線を阻害される「邪魔な存在」でした。
2. 迷惑をこうむっていたけど忌むべき相手ではなかった
こんな不自由を与える米軍基地でしたが、私たちの町にとってそれほど米軍基地が忌み嫌われていたかというとそんなこともありませんでした。
少なくとも私にとっては横田基地は「大好きな場所」でした。
2-1. 僕らの好きな場所
子供の頃の私や友達たちにとって「横田」は好きな場所のひとつでした。
カッコいい戦闘機に憧れてよく見に行ったものです。
休みの日には、日がな1日、ボーとしながら金網越しに滑走路を眺めていたものです。
珍しい機種の飛来の情報を無線などで察知した「プロ」は、スゴイ望遠レンズをつけて金網越しに張り込んでいたりします。
そんなときは、私たちも期待を込めてずっと自転車に座りながら待っていたものです。
中学生の僕たちは沖縄の台風回避でF-15イーグルという憧れの戦闘機が何十機も飛来するという情報を察知して学校をサボって金網の前で興奮したものです。
私たち戦闘機ファンにとっては、生の博物館みたいなもんです。
大抵の機種は音だけで判別がつきました。
米軍基地は治外法権で遠い存在でもあり、とても身近な存在でもありました。
私の住んでいた町は自然に恵まれた良いところではありますが、子供の私たちにとってはとても刺激の少ない「つまらない町」でしたが、横田基地があったお蔭で「他には無い」楽しみがあったのは間違いありません。
2-2. 田舎者の僕たちが「アメリカ」で買い物できるストリート
自転車でどこまでも出かけてしまう僕らは横田基地近隣のお店はとても魅力的でした。
ジーンズショップやワッペン専門店、模型屋さんなど良く通いました。
変動相場制になる前の米軍の軍人さんたちはとてもお金を落としてくれる「お得意様」だったのでしょうが、そういうお店は全部隣町にあり、私の住んでいた町は商売が無縁の素朴な町でした。
だからこそ自転車で出かける横田基地ショッピングは毎日が退屈な僕らにとって最高にワクワクするイベントだったのです。
2-3. 横田のカーニバル!
年1回市民に開放する横田基地の「友好祭」は私たちの楽しみの一つでした。
私たちは「横田のカーニバル」と呼んでいました。
お目当ては、展示してある戦闘機や航空自衛隊のブルーインパルスによる曲芸飛行です。
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こんなインスタ映えツールでブルーインパルスを撮影したら動画投稿も楽しくなりそうですね。
カメラ片手に撮りまくりました。
この時だけ基地の中に入れるのですが、いつも「ここはアメリカ」なんだなって思いました。
やたらでかくて「大」の個室のドアの足元が大きくあいているトイレとか、やたらでかくてこげた匂いを発しながら焼いていたステーキとか、ノー天気に明るいお姐さん達とか、私たちが普段目にしない世界がそこにはありました。
2-4. キュートな私の家庭教師、シンディさん
大学生の時には基地の中の人を紹介されて英会話を習ったことがあります。
習ったと言っても、ただ英語で話すだけでしたが…。
シンディさんという30代の女性の軍人さんでした。
とても明るく優しく、そして…貫禄もありました。
時々、ご自宅に招待されたり、基地内のスーパーなどに連れてってもらいました。
ここは全ての様式がアメリカで家の造りも全然違いますし、売ってるものも全部本場のものです。
アイスクリームなんかごちそうになったら、それはそれは激甘です。
「こんなの食ってたら、そりゃぁ太っちまうな…」
って感じです。
シンディさんから10代の頃の写真を見せてもらいましたが、キュートなモデルさんみたいな少女でした。
思わず見比べてしまいました…。
シンディさんとは家族ぐるみの付き合いをすることとなり、時々我が家にも二人の可愛いお子さんを連れてきたりして楽しく過ごすこともできました。
本当にお人形さんみたいに可愛い子でした。
お兄ちゃんはシャイで、妹のオシャマさんは元気いっぱいでした。
うちの母がお手製のピンクのハッピを作って着せたら大喜びして走り回っていました。
夏祭りには地元の山車を引いたりして…。
2-5. 校舎は冷暖房完備で家が綺麗になった
横田基地の騒音対策として国から補助金が出ていました。
小中学校は二重窓で冷暖房完備でした。
私、高校生になって少し都会の高校に行ったとき、校舎にストーブがあったのを知りビックリしました。
「学校って冷暖房完備じゃないんだ」って。
我が家はとても古い家だったのですが、ある日補助金で防音工事をしてくれるということでした。
ついでに私の個室を増築してくれて、水洗トイレも完備されとても嬉しかった思い出があります。
何だか、昔から住んでてこんな「オイシイ思い」をしていいのか、と子供ながらに感じたものでした。
3. 横田基地は私にとって愛すべき魚釣りした小川と同じ
私は基地の町に育ちました。
確かにうるさいしゲートの無いわが町にはお金も落ちないし迷惑な代物だったのですが、何故か私には身近な存在で決して悪い印象でもありませんでした。
たぶん飛行機好きだっただけではないと思います。
私の中では田舎の風景、小川とか山とか田んぼとかと同じような…。
米軍基地って私の中では本当に身近すぎて小川じゃなかったら、大型スーパーぐらいの感じなのかなって思っています。
私の町と反対側の滑走路の延長線上の町は市街地にもろに離発着ルートがあり、離発着数も多かったみたいで「騒音でガラスが割れた」なんて話を聞いたことがあります。
そちら側の市では訴訟もかなり頻繁に行われていたようです。
子供の記憶ですからあいまいですが、私たちの町でそれほど極度に基地に反対する人って見たこと無かったです。
補助金とかが自治体に交付されていて潤っていたからかな?
とにかくみんな「基地があるのが当たり前」の空気がそこにはありました。
こういうのって、外から見るのと実際にそこで生活している人の感覚って違うと思うんですよね。
そこに政治的な感覚は無く、昔から当たり前にそこに存在していてから受け入れている、という感じです。
良いとか悪いとかの議論の遡上にも上がらない感じ。
今は少し離れたところに暮らしているのでときどき飛行機を見るくらいで爆音に悩まされるような暮らしをしていませんが、あったらあったで受け入れていたような気がしています。
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