若き20代の頃、人生を捧げたと言っても過言ではない仕事、それが私にとっての旅行の仕事でした。
今回ご紹介するのは私が旅行会社でようやく地に足がついて来た頃の添乗でのお話です。
そこで起きたアクシデント…
今回の記事はHaruがご案内いたします。
1. 三国志・最大のクライマックス「赤壁」
香港のスーパー・スター、ジョン・ウー監督の『レッドクリフ』と言う映画をご存知でしょうか?
三国志のクライマックスとも言うべき、「赤壁の戦い」を描いた壮大なスケールの戦国スペクタクルです。
日本では2008年に公開されています。
諸葛孔明役の金城武がカッコ良かったです。
それと、ヒロイン小喬役の台湾のスーパーモデル/リン・チーリンはとても綺麗でした。
私の大好きな映画のひとつです。
当時はワクワクしながら劇場で観ました。
2. 三国志好きによる三国志ファンのためのツアー
2-1. どうしてもやりたかった「三国志ツアー」
私は旅行会社勤務時代、ツアーの企画も募集も添乗も何でもやりました。
そんな中、どうしてもやりたかったのが、この三国志のツアーでした。
三国志を夢中で読んだ私にとっては「三国志を巡る旅」は是非とも実現したかった企画でした。
私は当時人気のコースと絡めた企画に張り切っていました。
「赤壁」をはじめとする、三国志の舞台となった長江(揚子江)沿岸の名刹をクルーズ船で下りながら楽しむスケールの大きな旅です。
2-2. 「三峡下り」は中国旅行の人気クルーズ
このツアーを実施した頃、長江クルーズ「三峡下り」は中国旅行の人気観光コースでした。
当時人気の三峡下りは沢山のクルーズ船が就航していました。
2泊から4泊程度のクルーズは、各船ごとに下船観光スポットが異なりました。
私はコース選定において徹底的に三国志ゆかりの地にこだわりました。
2-3. ツアーのもう一つの魅力
更に私の企画したツアーでは、蜀の都・四川省成都にある三国志の博物館の館長に同行してもらいました。
三泊四日の船旅では毎晩、夕食後に談話の時間に面白いエピソードを披露してもらったり、ラウンジで語らいの時間を共有してもらったりして三国志ファンのお客様に大変喜んで頂けました。
下船観光時にも館長さんに同行して頂き、いろいろなエピソードを聞きながらの観光が楽しめるものです。
2-4. 懇願した添乗
ほとんどが私のリピーターのお客様に声をかけご参加頂き、めったにない少人数のツアーの添乗が実現しました。
普段は営業マンである私が添乗員として同行できるのはVIPであるとか、大型の団体であるとか、「手間がかかるツアー」ばかりでした。
少人数の観光旅行に和気藹々と同行できるチャンスはめったにありませんでした。
この「三国志を巡る旅」では、私が企画・集客・手配全部を行いました。
私の仲の良い気心の知れた現地ガイドさんを指名して準備も万端。
お客さんからも、
「Haruさんが一緒に行ってくれるなら参加してもいい」
という嬉しいバックアップを得て、上司に
「このツアーの添乗は私以外考えられません」
と、食い下がってゲットしたものでした。
3. クルーズの出発だっ!
3-1. 日程遅れで焦る添乗員たち
ツアーは毎日皆さん楽しんで頂けて上々でした。
ただ、当時の中国はなかなか交通機関などがスケジュール通りにいかないことがよくあって添乗員泣かせの国でした。
特に三峡クルーズは船旅でそれが顕著でした。
私たちの乗った船も行程が毎日少しづつ遅れており、乗り合わせた添乗員とガイドたちはやきもきしていました。
その年から旅行業法の改正があり、
「募集日程に記載された内容を案内できなかったらお客様に規定の罰金を払わなくてはならない」
というルールが施行され、添乗員たちは非常にナーバスになっている時期でした。
3-2. 日が暮れそうな寄港地
その日も…
下船観光スポットのある寄港地に着いたのが夕方でした。
早くしないと日が落ちてしまい、屋外観光に支障が出てしまうことを心配していました。
川岸にはたくさんのバスが並んでいますが、各ツアーの添乗員とガイドたちはあらかじめスムーズなバスへの乗車ができるよういろいろと打ち合わせをしました。
そんな準備が奏功して、なんとかその日の観光スポットを急ぎ足で見て回ることができました。
普段はあちこちの観光地で会う「同業者」とは、ある意味競争相手ですが今回ばかりは「みんなで協力し合った」のです。
3-3. 事件は起きた
そして夕闇せまる街中を川岸に戻るべくバスは急いでいました。
もう少しでクルーズ船に戻れるとホッとし始めた、その時、私たちツアーメンバーを乗せたバスの最後尾でガツンと音がしました。
私とガイドさんは反射的にバスの外を見ました。
後ろからバスの横をすり抜けようとしたオートバイが中央分離帯になっている高い柵とバスに挟まれ横転しているのが見えました。
私たちは、
「ストップ!ストップ!」
と、慌てて大声でドライバーさんに駆け寄りバスをその場に止めさせました。
3-4. どうする?この状況
私は隣にいるガイドさん(スルーガイドといって中国内の全行程を同行してくれる私と仲良しのガイドさん)に向かって、こう叫んでいました。
「代わりのバスを捕まえて!」
彼はびっくりした顔で私の顔を見て、こう言いました。
「捕まえるってどうやって?」
私は夢中で答えます。
「その辺に走ってるバスを貸し切るんだよ!」
「そんなの無理だって…」
さっきまで私とお気楽におしゃべりしていたガイドさんはちょっと泣きそうです。
3-5. 早くしないと大渋滞がっ!
私は中国の交通事情からして片側一車線の道路で事故で立ち往生した大型バスがいたらその道路は完全にマヒしてしまうと思いました。
そんなことになったら長時間この町から出れなくなってしまう…。
それでなくても行程が遅れていてお客様は結構お疲れでお腹もすいているはずです。
船のお部屋で汗を流して早く夕食を食べたいでしょう。
バスが立ち往生してしまったら、何時間ここで足止めを食らうかわかりません。
こういうときの中国の大渋滞は日本のそれとは一味違ってどうにもならないのを経験しています。
3-6. 覚悟を決めたガイド
無理難題を言っていることは自分でもわかっていましたが私は本気でした。
その気迫に押されたように、スルーガイドの彼は、
「わ、わかった。やってみる」
と、言ってくれました。
私たち二人はすぐバスを降りて、反対車線に行き、停車中のマイクロバスの運転手と交渉を始めました。
私は言葉がしゃべれないので、交渉は彼がやりました。
3-7. びっくり!早業!
私もそんなことができるかどうかなんて考えてお願いしたわけではなかったのですが、何と!1台目でゲット!できたのです。
彼は絶対にやってくれると思っていましたが、こうもすぐにゲットしたのには、頼んだ私の方がびっくりでした。
ゲットしばバスは、この町の工場の送迎バスでした。
工員さんたちを乗せ家路に送るバスだったのです。
時間はちょうど帰宅ラッシュで道路は混んでいたのが幸いしました。
彼は送迎バスの工員さんたちをその場で降ろしちゃってくれてます。
日本では考えられません。
工員さんたちは、「いったい何が起きたのか」よく事情を呑み込めなかったのではないかと思います。
正直に言えばドライバーさんに金を握らせたわけで、お金を受け取った送迎バスのドライバーさんがみんなにいくらかを渡して下車を促したわけです。
このドライバーさんはその場を仕切って私たち外国人旅行者を川岸まで送って行く気満々です。
(いったいドライバーの彼は会社に対して何て報告したんでしょうか?)
3-8. バスに乗り込み いざ!出発
とにかく私はガイドさんにそのバスを手放さないように見張ってもらい急いで立ち往生しているツアーバスに戻りました。
私のツアーのお客様に大声でバスの乗り換えをお願いしました。
とにかく1分1秒を争うと思っていたので、大急ぎでマイクロバスの方に乗り込んでもらいました。
ツアーバスには私のツアー以外にも同じ船で来たツアーのお客さんもいて、他のツアーに同行してきた添乗員から「一緒に乗せて行ってくれ」と頼まれました。
小さいバスで乗せるゆとりがないのできっぱり断って、
「自分で何とかしてくれ!」
と、返事をしました。
3-9. まさに神業!
私たち一行は、路上で他の添乗員とガイドたち何組かが、私たちと同じようにバスの窓に向かって交渉しているのを尻目に川岸へとバスを出発させました。
事故が起きてからその間、約10分。
案の定、反対車線は完全に通行止め状態になってしまいました。
私とスルーガイドの彼は椅子にようやく腰かけ、ほっとしてバスの向かう先を見つめていました。
お客様の皆さんも急な事件に、
「大丈夫だったのかしら?」
といった感じで口ぐちに不安やら興奮やらを表していました。
4. 事後処理に追われ…
ちょっと前まで工場のマイクロバスだった私たちの臨時ツアーバスは、ほどなく無事に船の待つ川岸に到着しました。
乗船するとまずはお客様にお部屋に戻って身支度を整えてもらい、食事の準備ができたらお呼びしますと伝えました。
船室へのご案内が済むと、私は船のレストランに猛ダッシュです。
既に夕食のバイキングの準備が整っている状態でした。
私のお客様の席をキープしてバイキングの料理も取り分けて皆様がレストランに来ていただいたらすぐに食事ができる状態をスタンバイしました。
そして皆様をレストランにご案内し、食事の時間を楽しんでもらいました。
4-1. 夕食でのインフォメーション、そして拍手
ひと段落してお客様のテーブルに行き、私はこうインフォメーションしました。
「先ほどの事故のオートバイの方ですが、対応したドライバーさんと連絡が取れまして、大したけがもなく無事であることが確認できました。ご心配おかけしました。」
お客様は安堵の声を上げ、拍手が起こりました。
旅のちょっとしたハプニングとして思い出のひとつなりました。
その後もこのツアーは行程の遅れにひやひやさせられましたが、大成功のうちに帰国となりました。
5. 帰国後の添乗員の憂鬱
帰国後はお客様から写真を添えられたお礼状を沢山いただきました。
ただ、私は帰国後、少し暗い気分になっていました。
5-1. 旅の真相
私は現地にいる間、事故を起こしたオートバイの人のことなど一度も心配することはありませんでした。
夕食の時にインフォメーションした話は私の作り話でした。
オートバイの人が死んでしまったのか、かすり傷で済んだのか、それすら知りませんでしたし、知ろうとも思いませんでした。
正直なところ、その時の私にとってはどうでもいい情報でした。
私たち外国人を乗せたバスが街中で事故を起こし、現地の人々の生活に大迷惑をかけたことも、お金にモノを言わせて生活の足として使っているバスから現地の方々を降ろしてしまったことへの罪悪感も微塵も感じていませんでした。
5-2. 振り返って添乗員が思うこと
でも…、
帰国後ふと我に返り、「お客様の満足度を上げるためなら何をしてもいいのか?」、と、ちょっと自己嫌悪に陥りました。
私は一生懸命仕事をしたつもりでしたが、、仕事を一生懸命、一心不乱にやると、こんなことにもなるんだなと感じました。
よく会社の不正経理で生真面目そうな経理マンが逮捕されるニュースなんかを見るとちょっとこの時のことを思い出します。
仕事を優先するあまり、世間の常識とか倫理観が飛んでしまうこと…
気を付けたいと私に思わせるきっかけになった事件でした。
6. ツアー成功の功労者・中国人ガイドの彼
でも、そのこととは別にこのツアーの成功は私の旅行マンとしての最高の思い出であり、最大の勲章だと思っています。
それぐらい、このツアーは私にとって思い入れ深いツアーでした。
6-1. 頼りになるガイドさん
この時にバスを調達しれくれた頼もしいガイドさんは、いろいろなところで未熟な添乗員をサポートしてくれました。
彼なしではこのツアーの成功はありませんでした。
彼には本当に感謝しています。
もちろん、彼は三国志博物館の館長の同行よりも先に予め指名して同行の約束を取り付けていました。
6-2. 良き友としてこれからも
現在、彼はご家族と一緒に日本に住んでいます。
時々会う間柄で先日も美味しいお酒を酌み交わしました。
歳の近い彼とは妙にウマがあって、会うといつも話が尽きません。
思い出話を語り合うというよりは、家族のこととか、現在のお互いの仕事の悩みを語ったりしています。
このツアー以外にも苦楽を共にした経験がある彼とは、旅行の仕事を辞めてしまった私ですが、これからも良き友達付き合いができそうです。